日本オーディオ協会 創立70周年記念号2022autumn

『立体音響、飛躍の10年』
「イマーシブオーディオ制作現場最前線」
Xylomania Studio 古賀健一 インタビュー

Apple MusicやAmazon Musicなどのサブスクリプション型音楽ストリーミングサービスが「空間オーディオ」に対応したことで、音楽コンテンツは従来の2chの世界から解き放たれようとしている。ヘッドホンやイヤホンでも楽しめる空間オーディオだが、ドルビーアトモスなどに対応したスピーカーシステムで聴くその音は、間違いなく「これからのオーディオ」のひとつのあり方を示すものだ。ここではドルビーアトモス/360 Reality Audioに日本国内でいち早く対応したレコーディングエンジニアの古賀健一氏の活動拠点であるXylomania Studio(シロマニア・スタジオ)LLCをうかがい、音楽コンテンツと立体音響の関係についてうかがった。

古賀健一さん(以下、古賀):
3歳でピアノ、中学でギターを始めてバンドも組んだのですが、その頃からもう「音楽で食べていきたい」という明確な思いがありました。ただ、バンドで食べていくのは無理だと早いうちに悟り、演奏することと同じぐらい興味のあった録音やPAについて勉強しようと思ったんです。それで福岡の高校を卒業後、東京スクールオブミュージック葛西校のエンジニアリング科に進学するために上京しました。専門学校を卒業して中目黒の青葉台スタジオに入社したのは2005年で、フリーランスとして独立したのは30歳になる2014年。青葉台スタジオを辞めると決めたあと、自分のスタジオをオープンするために物件を探し始めたのですが、ちょうど仕事でご一緒したアレンジャーさんが仕事場として使っていたこのスタジオを手放すことになって、半ば居抜きのような状態でこのスタジオを引き継ぎました。大きな転機がやって来たのは、5年後の2019年です。

――それはドルビーアトモスとの出会いですか?

古賀:そうです。もともとオーディオやホームシアターが好きで、自宅では5.1chや7.1chのサラウンドシステムを構築していましたし、ドルビーアトモス対応映画館やドルビーシネマにも通っていました。ですから自宅のホームシアターもドルビーアトモス化したいと思っていたのですが、物理的にうまくトップスピーカーを設置することができない。そんな時期に、ちょうどハリウッドに行くチャンスを得まして、2週間ほど向こうのスタジオをいろいろ見学することになったんです。そして、アトモス対応の改修工事を行なっていたカウバーシティのソニー・ピクチャーズ エンタテインメントのスタジオの様子を見て「今後の映画音響はこうなる」と確信しました。これからのエンジニアは5.1chや7.1ch、もっと言えばドルビーアトモスで音源を納品できないとやっていけないと思ったし、何より自分がアトモスなどの立体音響に真剣に取り組みたかったので、帰国後すぐにスタジオのアトモス対応について考え始めました。

――具体的に、ドルビーアトモスのどんなところに惹かれたのでしょうか。

古賀:いまお話ししたように、プライベートでは以前から5.1chや7.1chを実践していたので、ドルビーアトモスというフォーマットそのものはそれらの正常進化形としてすんなり受け入れることができました。そのいっぽう、仕事では5.1chの制作の経験も少なく、ずっと「なぜ音楽コンテンツは基本2chで制作しなければならないのだろう」という素朴な疑問を持ち続けていました。スピーカーの「外側」に音像を定位させたくて仕方がなかったんです。それで、コロナ禍の2020年6月に録音ブース側を解体し、ドルビーアトモスに完全対応したスタジオに造り替えることを決めました。その過程はサウンド&レコーディング・マガジン誌(シンコーミュージック刊)の『DIYで造るイマーシブ・スタジオ』という連載にまとめられています。多くのエンジニアやアーティストにイマーシブオーディオと呼ばれる立体音響の世界を知ってほしかったので、金銭面を含めた現実的な情報もすべて公開しました。スタジオとして稼働するようになったのは2020年12月で、現在はドルビーアトモスの9.1.4と360 Reality Audioの9.0.4.5に対応する構成になっています。近いうちにトップスピーカーをさらに2ch分追加する予定です。

――ドルビーアトモスの制作に対応して以降は、どのような作品を手がけられていますか?

古賀:稼働したばかりの頃は、まったく依頼はありませんでした。僕は基本的に音楽畑のエンジニアですから当たり前ですよね。映画の劇伴ならともかく、当時のJ-POPでアトモス音源を出したいアーティストなどまったくいませんでしたから。最初の仕事は、Official髭男dismの無観客オンラインライブで、その音源は2021年2月リリースの彼らのシングル『Universe』に付属するBlu-ray『Official髭男dism ONLINE LIVE 2020 -Arena Travelers-』に収録されています。ヒゲダンはメジャーデビュー前から付き合いのあるバンドで、近年もライブ録音などを中心に関わらせてもらっているのですが、彼らやディレクターに「ドルビーアトモスでやりましょう」と、こちらからプレゼンテーションしました。メンバーも含めて最初はピンときていない様子だったけれど、「いまはまだ聴ける人が少なくても、作品として作っておくことに意義があるから」と説得しました。


2021年2月24日にリリースされた『Universe』に付属するLive Blu-ray『Official髭男dism ONLINE LIVE 2020 -Arena Travelers-』に、古賀さんが制作に携わったドルビーアトモス音声が収録されている

――ライブ録音をアトモス化するにあたって、どのようなところに気を配りましたか?

古賀:この日のライブは無観客だったので、ファンの皆さんが現場で観たような気分になれる音づくりを目指しました。また、アーティストは自分たちのライブを絶対にリアルタイムで体験できないじゃないですか。だから、「あなたたちのライブはこんなに凄いんだよ」と、なるべく実際に近い音で本人たちに味わってもらいたかったんです。それ以降、メンバーとスタッフの意識が変わり、「アトモスで作品を残すことはわれわれのミッションだ」と考えてくれるようになりました。

2021年6月にApple Musicが空間オーディオに対応したことも追い風になったと思います。8月に新作『Editorial』と旧作『エスカパレード』を空間オーディオ化、つまりドルビーアトモス化してストリーミング配信したほか、10月5日リリースのブルーレイでのライブ盤『one-man tour 2021-2022 -Editorial- @SAITAMA SUPER ARENA』まで、さまざまな立体音響作品を関わらせてもらっています(編註:インタビューは2022年8月に実施しました)。

――古賀さんが手がけられた立体音響作品で、ほかに思い入れの深い作品はありますか?

古賀:どの作品にも思い入れはありますが、2021年に第27回日本プロ音楽録音賞Immersive部門で優秀賞を受賞した『僕らのミニコンサート』というオペラ作品は特によく印象に残っています。このプロジェクトでのトライアルが、現在の自分たちのベースになっていることは間違いないので。

――今後の音楽コンテンツは、やはり立体音響の音声フォーマットを持つ作品が多くなっていくと思いますか?

古賀:僕はドルビーアトモスや360 Reality Audioといった立体音響フォーマットが音楽のスタンダードになると確信しています。モノーラルからステレオ、ステレオからサラウンドとオーディオフォーマットが進化してきたことを考えれば、それは当然の成り行きだと思うんです。フィジカルメディアでも配信でも、音楽コンテンツを購入すれば普通に空間オーディオが聴ける。それが自分の理想です。あとは、表現者と聴き手がそれを積極的に選んでくれるかどうかだと思います。

――Apple Musicはドルビーアトモスを空間オーディオと呼び、Amazon Musicはドルビーアトモスと360 Reality Audioを同じく空間オーディオと呼んでいます。そのほか、DTS:XやAuro-3D、NHKの22.2マルチチャンネルなど、近年は実に多様な立体音響フォーマットが乱立しており、ユーザーが全体を把握しづらい状況にあります。

古賀:そうですね。僕の場合、現状は扱いやすさの面などからドルビーアトモスの音源を制作することが多いのですが、正直なところそれぞれのフォーマットは「手段」でしかありません。エンジニアとしては、「立体音響」を作りたいだけであって、極論を言ってしまえばフォーマットは何でもいいんです。より多くの人に届くように、出口の部分をよりシンプルにしてもらえるとエンジニアとしては嬉しいですね。

――「表現者と聴き手がそれを積極的に選んでくれるかどうか」を考えれば、シンプルであることに越したことはないですね。

古賀:ええ。いくら「これからは立体音響だから」と口で伝えても魅力は分かってもらえないので、僕は一緒に仕事をしている若いアーティストには「5分だけ時間をちょうだい」と言って、ステレオとアトモスを比較できる音源をスタジオで聴いてもらっています。若いアーティストにとって、立体音響の世界を「早めに体験するか」は、その後のキャリアに大きく影響すると思うので。

実際、アトモスを体験して「(アトモスありきで)曲を作ってみたい」と言ってくれるアーティストもいます。いっぽうで、聴き手はいまよりもっと「わがまま」であってほしいと思います。アーティストやエンジニアに要望をしっかり表明してほしい。と言うのも、自分も含め最近の制作側スタッフは聴き手のことをちゃんと理解しているかどうか、いささか疑問だから。一度でも「みんなスマホで聴くんだから、ここまでのクォリティは求めていないだろう」と思ってしまうと、音楽は本当にただの消費物になってしまいます。音楽のレベルが下がってしまわないように、お互いの思いを活発にぶつけながら切磋琢磨することが大切です。そういうことが当たり前の世界になるように啓蒙活動を続けながら、自分の技術も高めていきたいですね。

――今後も楽しみにしています。本日はありがとうございました。


古賀さんが携わったドルビーアトモスコンテンツの一例。すべてブルーレイで左から『Official髭男dism ONLINE LIVE 2020 -Arena Travelers』、『Akane on Baroque2021/大塚茜フルートリサイタル』、『モーツァルト! 2021年キャスト Blu-ray 山崎育三郎 ver.』(なお、関連作として同作の古川雄大ver.も手がけている)

プロフィール

古賀健一(こが けんいち)
1983年、福岡県出身。レコーディングエンジニア、Xylomania Studio LLC CEO。東京スクールオブミュージック葛西校でエンジニアリングを学び、青葉台スタジオを経て、2014年に独立、自身のスタジオ「Xylomania Studio」を開設する。ASIAN KUNG-FU GENERATION、Official髭男dism、ichikoroなどバンドものから、クラシック、ミュージカル、映画音楽までさまざまな作品を手掛ける。ドルビーアトモスなどの立体音響を使った音楽制作を積極的に行なうことで知られている。