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JASジャーナル目次
2026winter
人の輪と時の輪がつむぐ70年万博の
楽曲再現プロジェクト
奈良女子大学 副学長 才脇直樹

0. はじめに
2025年は大阪関西万博に世界中からたくさんの方々が来場し、大変な賑わいを見せました。今から55年前の1970年には、同じ大阪で日本初の万博が開催されたわけですが、その会場の中で流された音楽「太古」のテープが近年発見されたため、これを再現しようというプロジェクトを2025年に実施しました。背景から実施に至るまでを述べていきたいと思います。
1970年大阪万博の「お祭り広場」で流された環境音楽と呼ばれる楽曲12曲のうち、大阪府茨木市出身の作曲家松下眞一氏(1922~90年)が手がけた「太古」の音源テープが見つかった。万博閉幕後、所在が分からなくなっていたが、親族が同市に寄贈した資料に含まれていた。当時は450個以上のスピーカーで立体的な音空間を演出したとみられ、奈良女子大の研究者とソニーが最新技術で曲を復元、再構成し、25日、同市のイベントで披露する。(2025年9月19日付読売新聞夕刊より:奈良支局 栢野ななせ記者)
1. 人の輪I ~茨木を代表する二人の音楽家~
私が住んでいる大阪府茨木市の市役所では、平日の業務開始時刻である午前8時45分になると始業のチャイム代わりに「茨木市歌」が庁内放送で流れます。これは、周辺の町村が合併して大阪府下で13番目の市として発足した昭和23年(1948年)に制定されたもので、作詞:大江金治、作曲:仲芳樹による作品です。一方、午後5時15分の終業時には「茨木讃歌」が流れます。これは、市制施行30周年を記念して作られた合唱曲で、作詞(一般公募):栗本素子、作曲:松下眞一という組み合わせでした。
この二人の作曲家は、いずれも茨木市で生まれ育ち、旧制茨木中学校(現大阪府立茨木高等学校)を卒業されました。まず、先輩である仲芳樹氏は明治44年(1911年)に生まれ、天王寺師範学校専攻科を卒業後、山田耕筰氏の弟子として作曲を学ばれました。その後、日本における西洋オーケストラの祖と言われ、また元々盟友でもあった近衛秀麿氏(近衛文麿首相の異母弟)周辺との相克等に苦しんでいた師を関西に迎えて、昭和12年(1937年)に相愛女子専門学校音楽科(科長:山田氏)が設置されます。そして、終戦後の昭和33年(1958年)に相愛女子大学音楽学部が発足すると山田氏は学部長に就任し、仲氏はその片腕の教務担当教授として精力的に学部運営に携わり、音楽心理学の研究で著名だった京都大学の梅本尭夫氏をスカウトするなど手腕を発揮されます。山田氏の退任後は自らも学部長として同大学音楽学部の隆盛に尽力されますが、音楽理論が専門ということもあって、作品そのものはあまり世に知られていないように思います。その中で、「茨木市歌」は様々な市の行事などを通じて多くの市民に親しまれ、長く歌い継がれているという点で、仲氏の代表作といってよいと思います。その明るく、力強く弾むような、誰にでもわかりやすいメロディと和声進行は、山田耕筰氏直弟子の面目躍如といったところで、こうした曲調は、高度成長期を迎えた当時の日本社会の高揚感を反映しているようでもあり、近隣の小学校校歌等の作曲依頼が結構あったのも宜なるかな、と感じます。
一方、仲氏の後輩で大正11年(1922年)生まれの松下眞一氏は、作曲家であると同時に、旧制第三高等学校(現京都大学)を経て、九州大学理学部を卒業された位相解析学を専門とする数学者(理学博士)でもありました。従って、生涯の多くを数学者として国内外の各種大学や研究機関に所属されつつ、作曲家としても華やかな活動実績をあげられました(表1)。当時は、第二次大戦後に急速に進歩し始めた電子技術の影響が音楽や音響技術の世界にも及び、世界的に前衛電子音楽の華やかなりし頃でした。日本でも、詩人の瀧口修造氏を中心に結成された実験工房に参画した武満徹氏、湯浅譲二氏らを始めとする、松下氏と同世代の音楽家達によって、伝統的なクラシック音楽の枠組みにとらわれない様々な試みが行われました。松下氏自身も、五線譜では表現しきれない音の様々な変化を色鮮やかなグラフィック楽譜として描いたり、哲学的エッセイを執筆するなど、多様な才能に恵まれていました(図1)。

図1 ピアノのためのスペクトラ 第5番の図形楽譜
(画:松下眞一氏、野いばらの会提供)
山田耕筰氏の直弟子であること、つまり伝統の直系に位置する事を誇りにされていた先輩の仲氏とは異なり、音楽について特定の人物に師事した訳ではないと語られている点も、異分野融合による新たな文化的価値創造の道を自ら切り開こうとしていたこの世代・立場の若手の面目躍如たるマインドだったのかもしれません。とはいえ、作曲や和声学は永井巴氏、ピアノは中村良治氏、指揮は朝比奈隆氏、そして作曲の基礎は父親である松下久一氏に教わり、13歳にして自身初となる第一交響曲を作曲したと回顧されている松下氏は、先人や伝統に対するリスペクトも十分にお持ちであったと感じます。晩年には、こうした文化活動の集大成として「野いばらの会」を設立。作品発表の場として文芸誌「野いばら」の第一号を平成2年(1990年)に発行され、その年末に惜しまれつつも68歳の生涯を茨木市で閉じられました。
このお二人相互の関係ですが、最晩年は手紙を交換しあい、時には会ってよもやま話に時間を忘れるほど共鳴しあっておられたように伺いました。仲氏にとって松下氏は、同郷人として世界に羽ばたいた誇るべき優秀な後輩であると同時に、音楽研究や教育、日本における音楽文化等について深く語り合える得難い仲間であったようです。
2. 人の輪II ~二人の音楽家と私の交点~
実は筆者(才脇直樹)の祖父は、仲氏と同郷の又従兄弟(またいとこ)でした。お堅い役場勤めだった祖父は、芸術家気質の仲氏がまとう文化的なオーラに魅了され、一方の仲氏は東京や大阪での音楽家・学者としての活動の忙しさから、実家の運営・管理等の実務を祖父に相談する相補的な関係でした。仲氏の著作に「音楽理論の基礎」(音楽之友社)があり、今でも古書として入手できるようです。この本を昭和57年(1982年)に刊行された際に頂戴した私は、相互の自宅を行き来する機会に音楽理論を教えていただくことになりましたが、その時間の多くは楽しい昔語りに費やされました。師であった山田氏がコメントや手直ししてくれた楽譜は一生の宝物であること、関西における音楽研究・教育普及の最初期を担った事の楽しさや苦しさ、前衛音楽や電子楽器との衝撃的な出会い、その重要性を再認識させられた70年大阪万博に招待したカールハインツ・シュトックハウゼン(ドイツ)との交流、音楽は決して音楽を専門に学んできた人間だけの範疇にとどめきれない人類普遍の文化であること、西洋音楽に対して、東洋あるいは日本の文化伝統や社会性に根差した多種多様な音楽を確立することの重要性など、目を輝かして熱心に語られる様子が今でも脳裏に浮かびます。そして、その中に松下氏の話もありました。残念ながら本稿で対象としている70年大阪万博の際のエピソードは少ないのですが、二人は仕事の上でご一緒されていたようです。ラジオやアマチュア無線などの通信技術から始めて、電子楽器作り経由で音楽に目覚めた私には、仲氏自身よりも松下氏やシュトックハウゼンのような、先端技術と芸術の融合に詳しい人々こそ師と仰ぐにふさわしい、とアドバイスももらいました。
こうした話を念頭に、私は信号処理や画像処理といった当時の最先端技術を音楽や音響(あるいは生体情報等の計測・分析技術)に応用する研究室がある大阪大学に進学することを決めました。恩師となった大阪大学名誉教授の井口征士先生は、日本における三次元形状計測や画像処理、音楽情報科学研究等を切り開いたパイオニアのお一人であり、自らも楽器を演奏される趣味人でした。また、その門下から多くの研究者や大学教員を輩出し、現在でもあちらこちらで先輩後輩が活躍しています。そんな私の卒論テーマは「感性情報処理を応用した作曲支援システムの構築」で、1989年に米国で開催されたInternational Joint Conference on AI(IJCAI)にて講演させていただく機会にも恵まれました。今で言うところの、AIによる自動作曲支援システムです。また、技術講演だけでなく、電子音楽作品の上演セッションもある当時最高峰の国際会議ICMC(International Computer Music Conference)をアジアで初めて開催するお手伝い(ICMC 1993 Tokyo)や、スタンフォード大学のCCRMA(Center for Computer Research in Music and Acoustics)への研究員としての派遣を通じて、研究者や技術者として、あるいは音楽家として、頂点を極めた世界中の素晴らしい方々とご一緒し、学ぶ機会を得ることができました(写真3、4、5)。
例えば、東京藝術大学でシンセサイザーをはじめとする電子楽器の導入・教育確立の最初期に尽力された白砂昭一先生から、電子楽器の回路学や、坂本龍一氏も履修されたという電子音楽の制作実習について教えていただき(写真6、7)、また同大名誉教授である松本民之助先生のご子息で、後に京都芸術大学音楽学部長に就任された松本日之春先生(以下、日之春先生)から、フランスのパリ国立高等音楽院に留学された際に学んで来られたミュージック・コンクレートをご指導いただく事ができました。日之春先生は、奈良女子大学がお茶の水女子大学と一緒に設置した、日本の女子大学として初めての工学系大学院(生活工学共同専攻)の客員教授を引き受け、設置記念式典に参列して「Bravo!」と大きな声で賛辞を送ってくださいました(補足1)。
更に、ヒューマンインタフェース学会の2014年度シンポジウム講演会にて、ヤマハやコルグ、ローランドといった電子楽器メーカー及び浜松楽器博物館の協力・協賛を得て、過去から現在に至る50台ほどのシンセサイザーの名器を紹介し、動態展示するイベントを企画・運営する機会を得ました(写真8、9、10)。これは自分自身の長年の夢がかなった瞬間でもありましたが、こうした経験が後々本稿でご紹介している松下氏の音源再現事業にまで発展し結びつこうとは、その時は全く想像だにしていなかったことでした。

写真10 ローランド元会長 梯郁太郎氏の技術グラミー賞受賞を祝って
ローランド最後の純アナログ音源機となった梯氏お気に入りのMC-202を手に
| 1947年(25歳) | 九州帝国大学理学部卒業。「子供のための三つの歌」音楽芸術賞入選 |
|---|---|
| 1950年(28歳) | 大阪府立春日丘高等学校 数学教諭(~1953年3月) |
| 1951年(29歳) | 大阪市立大学理学部講師 (位相調和解析 現 関数解析・新しいポテンシャル論研究) |
| 1952年(30歳) | 数学の専門分野における論文 On topological groups(Journal of the Institute of Polytechnics, Osaka City University) |
| 1956年(34歳) | 管弦楽のための<トッカータとフーガ> 第25回日本音楽コンクール第3位入賞 |
| 1958年(36歳) | 3群のための<相関> 第1回ローマ国際作曲コンクール入選 音楽之友社出版賞 フランス大使賞 8人の奏者のための<室内コンポジション> 現代音楽祭作曲コンクール第1位入賞/グループ<えらん>結成 |
| 1959年(37歳) | 理学博士(大阪大学) 論文:掃散理論の基礎について |
| 1961年(39歳) | フランス科学アカデミー(パリ)より招待 第35回ウィーン世界音楽祭より招待。同時に開催されたISCM(国際現代音楽協会)国際会議に日本代表として出席。ピアノと打楽器のための<カンツォーナ・ダ・ソナーレ 第1番> ISCM第35回ウィーン世界音楽祭入選 |
| 1962年(40歳) | 室内管弦楽のための<継起> 第2回ローマ国際作曲コンクール入選管弦楽のための交響曲 第3番<次元 交響的祈り>(NHK委嘱)第1回クリティッククラブ賞受賞 |
| 1963年(41歳) | 国際現代音楽祭「大阪の秋」の創立に中心的役割を果たし常任委員を務める(~1974年)。交響曲第4番<生> ドイツ大使賞 |
| 1964年(42歳) | 旧西ドイツ、ハンブルク大学の理論物理研究所より招待。同大客員教授及び共同研究員となる |
| 1965年(43歳) | 7楽器のための壁画<フレスク・ソノール> ザグレブビエンナーレ 初演・招待(5月)。同作品でマドリッド世界音楽祭入選・招待 ISCM国際委員日本代表として参加(6月)。<Das Zeichen ダス ツァイヘン> ドイツ大使賞旧ユーゴスラビアのザグレブビエンナーレに招待 |
| 1966年(44歳) | 大阪芸術賞受賞(分野:作曲) |
| 1967年(45歳) | 旧西ドイツ、エルランゲン大学特別講師/ハンブルク大学理論物理学研究所客員教授 |
| 1968年(46歳) | スウェーデン国立放送電子スタジオより招聘、世界初のGabor system(ガーホルシステム)に共同研究員として参加。 |
| 1969年(47歳) | 詩と音楽<心臓にて>(MBS委嘱)芸術祭奨励賞。日本万国博覧会 EXPO’70委員(1966年以降、関係者として企画に参与) |
| 1972年(50歳) | 大阪芸術大学音楽部創立委員 |
| 1974年(52歳) | 管弦楽と合唱とソリスト群のための<交響曲第6番 シンフォニア・サンガ> 芸術祭優秀賞。交響幻想曲<淀川>(朝比奈隆指揮)京都市交響楽団で初演 |
| 1977年(55歳) | カンタータ<ブッダ>第3番 芸術祭優秀賞/無伴奏チェロのための<道標> 共同で芸術祭大賞 |
| 1978年(56歳) | 茨木市制施行30周年記念<讃歌>作曲 |
| 1980年(58歳) | ハンブルク国立理論物理学研究所の理論物理及び数学主任教授Prof. Pascual Jordan死去により同所退職。その後フリーの研究者・創作家・作曲家・文筆家として生きる |
| 1982年(60歳) | 管弦楽のための<交響曲第7番・オーケストラのための新しい歌 -詩篇98の1による> |
| 1990年(68歳) | 「野いばらの会」文芸誌「野いばら」第1号発刊 |
(補足1)2.↑ミュージック・コンクレートは具体音楽とも呼ばれ、人や動物の声といった自然界の音、交通機関や工場など都市で発せられる人工的騒音、楽音、電子音、楽曲などを録音・加工し再構成して創作される音楽です。日之春先生は1970年に東京藝術大学大学院作曲専攻を修了され、その後パリ国立高等音楽院の作曲科および電子音楽科をそれぞれ首席で卒業されました。その際、ミュージック・コンクレートの創始者であるシェフェール直々に学ばれたということです。今回、音源再現に取り組んだ松下氏の「太古」という作品は、石や金属を叩くような音が何度も繰り返され、それらをミックスダウンしたものが空間配置を想定して複数のチャンネルに分散配置されるなど、ミュージック・コンクレート的な音作りが見られます。世界中から大阪万博にやってくる人々に、未来の音楽や日本の先進性を体感してもらおうと、当時最先端の考え方や技術を積極的に取り入れた意欲的な環境音楽の作品だったことがわかります。こうした状況にとても詳しかった日之春先生には、今回の再現事業でもいろいろ相談に乗っていただきたかったのですが、松下氏の事をお話ししてプロジェクトを開始しようとした矢先、突然の病状悪化で急逝なさいました(写真11)。その直前に、以下のような後世へのメッセージをいただきました。生前のご本人のご了解を得て転記させていただきます。
2023/02/24(金)18:11
26日日曜日ぜひお目にかかりたいと思います。ただ、貧血激しく、お茶会にいたしましょう。ミュージック・コンクレートの、シェフェールの目指したものの真実、は話しても誰も理解せず、興味もなかったので、どなたにも話していませんでした。短い時間になると思いますが、すでにシェフェール直系のものが死に絶えた現在、お話ししておけたら、私の義務も少し果たしたことになるのでは、と思っています。それと、音楽が現在あまりにも悲惨な芸術(もはや芸術というタームから自ら離れて行ってしまっている)についても私見をお話しできたら…。(以上、原文のまま)

写真11 パリジャン的センスを貫いた故・松本日之春先生と(2023年2月)
実はこの少し前に、茨木市音楽芸術協会主催のコンサートがあり、京都芸術大学時代の教え子が演奏するからと言って、当日中に自宅と往復される弾丸ツアーで茨木までお越しになったにもかかわらず、わずかな期間の間に体調が悪化されたようで、心配でたまりませんでした。そのため、指定された日に本当にお目にかかっても良いものか、恐る恐る(そして、息せき切って)お見舞いに上がりました。この遺言ともいうべきお話がどのようなものであったかについては、本稿の趣旨から外れるため詳しくはまた別の機会にご紹介できればと思いますが、概略を申しあげますと、ミュージック・コンクレートは作曲技法であるとともに音響・録音技術でもあり、「太古」に限らず現在のラップやヒップホップに至るまで、様々なサンプリング音楽や電子的に合成された多様な音楽音響の思想的・技術的源流といえるかと思います。ところが、シェフェール存命の当時には哲学やアイディアはあっても、それを実現できる信号処理技術や機材はもとより、音楽として受け入れる社会環境もまだ存在していませんでした。パリ国立高等音楽院に集う飛び切りの秀才たちが、当時の状況なりにそつなく上手にまとめあげた課題作品を確認しながら、いつもシェフェールは「こんなものじゃない」と不機嫌だったそうです。シェフェールが期待した、彼自身が呈示した作品作りの枠組みを超える本質的な技術と芸術の融合が実現するためには、コンピュータ(ハード)と情報処理技術(ソフト)の普及・発展を待たねばなりませんでした。その結果、クラシック音楽の文脈では早々に限界を迎えて衰退した訳ですが、早すぎた悲劇と理解すべきでしょうか。
なお、奈良女子大学では、前述の生活工学共同専攻に続いて、女子大学初の工学部を2022年4月に設置しましたが、当初、日之春先生に加えて、兄弟弟子であった坂本龍一氏にも音楽・音響工学に関する講義をお願いしていました。日之春先生は、各学生にPC及び接続するマイクを用意してくれ、それで楽器の演奏能力に関係なく十分音楽を構築できる、とおっしゃっていたことから、現在のコンピュータ技術を用いてミュージック・コンクレートの意義を伝えようと考えておられたことがわかります。残念ながら、お二人のご逝去によりこれもかなわぬ夢となってしまいました。日之春先生が坂本氏を誘ってくださったメールには、
「もしよろしかったら「ひのはるが最後に一緒に遊べたら嬉しい、永遠に交わらないスパイラルにならないかも」と言っていたとお伝えいただけたら幸いです。」(原文のまま)
とありました。そして偶然にも、同じ2023年3月に相前後して逝去される直前まで、お互いの病状を伝えあって励ましあわれているご様子を伺い、粛然とせずにはおられませんでした。最後にお目にかかった日、体調がすぐれないにもかかわらず、これが本当に最後の講義(一言で作曲の奥義・神髄を語る!)と称して、自らピアノを弾きながら、「坂本君が、僕の書いたサラバンド、日之春さんにしかわからないだろうな」と言ってくれたんだ、と遠い目で語られた際の、日之春先生の懐かしそうな、しかしどこか寂しそうなお顔、「弟(後述)が作ってくれたオーディオセット素晴らしいだろう」と、いつものスマイルで嬉しそうに自慢なさったお顔を交互に思い出しつつ、日本の現代音楽に大きな足跡を残し一緒に旅立たれたお二人のご冥福を、読者の皆様と共にお祈りしたいと思います。日之春先生が昔、年賀状に書かれていたお言葉、「Bon Voyage!」をお返しいたします。今頃きっと、やっと一緒に遊べたね、とおっしゃっていることでしょう(涙)。
3. 人の輪III ~「野いばらの会」とデジタルアーカイブ~
さて、茨木市花であるバラと市民(在野)の文化活動を掛け合わせて生まれた「野いばらの会」は、現在も松下眞一氏の精神を継承しつつ継続的に活動されており、実際に松下氏ご存命の頃よりご一緒された会員もいらっしゃるようです。私が今回の再現事業にかかわることになったのも、「野いばらの会」が2022年3月18日(金)から同23日(水)に開催された松下眞一生誕100年記念事業「茨木が生んだ鬼才 松下眞一展」への協力がきっかけでした。この展示会では当初、松下氏だけに焦点が当てられていましたが、前述したように松下氏と仲氏の間に接点や共通して語ることができる文化史的な側面があったことから、会場となった茨木市福祉文化会館(オークシアター)1階ロビーを第一会場として、両氏の経歴等を回顧する資料を設置し、2階を第二会場として、松下氏の著書や論文、楽譜等の作品群を展示されることになりました。ただ、実際のところ、両氏ともに音楽好きなマニアや専門教育を受けてきた方々の間でこそ知られているとはいえ、一般市民に浸透しているとはいいがたいのが現実です。そのため、少しでも多くの市民に地元の偉人を知ってもらいたいと、「野いばらの会」のメンバーが工夫を凝らした力のこもった展示だったのですが、日頃は一般市民の訪れる機会が少なく、恒久展示に適さない場所だったことや、場所に合わせた音源・映像の呈示方法など、将来のイベントに向けた課題も残りました。
こうした地道な啓蒙活動の企画運営を進めておられた矢先の2023年、松下氏の遺族が残されていた資料を新たに茨木市に寄贈されました。その中には多数のテープ類や楽譜等の資料が含まれていたため、これらをどのように管理・保存・公開していくのかについて議論となりました。その結果、「野いばらの会」が中心となり、寄贈を受けた茨木市に協力して、資料整理と基本台帳づくりを行うことになりました。また、資料のデジタル化による公開なども検討されることになったのですが、肝心の音楽を記録している磁気テープのデジタル化については、ほこりやカビ取りのクリーニングが必要だったり、誤差の少ない高精度なデジタル変換機器が必要だったりして難航が予想されました。何分、50年前の万博のころに活躍された方の遺物ですから、万が一テープの劣化が進んでいて再生中に切れたり、テープが伸びてしまっては元も子もありません。そんな時、前述したような事情で前衛電子音楽や録音技術、デジタル信号処理に詳しいと思われ、かつ地元出身者としてのご縁もある私に声がかかった訳です。
とはいえ、初めて寄贈されたテープ類を拝見した際は絶句しました。一言で磁気テープと言ってもその種類は千差万別で、一般的なカセットテープだけでなく、今では性能良好な再生装置を見つけたり、維持管理することも難しいオープンリールのテープも、取り混ぜてざっと200本ほどありました。オープンリールには10号(約27cm)といわれるサイズが大きいものと、7号(約18cm)と呼ばれる小さなサイズのものが含まれ、再生するレコーダーによっては両方のサイズに対応していない場合もありますし、録音時の設定によって再生(録音)速度の速い場合と遅い場合もあるにもかかわらず、録音時の仕様がほとんど記録されておらず、一本ずつ再生して調べる必要がありそうでした。また、保存状態にも特別な配慮はなかったように見えたので、クリーニングなしではレコーダーのヘッドを痛めデジタル化する際の音質も低下してしまいそうでした。私も専門家として、現役で稼働しているマルチトラック(4トラック及び8トラック)のカセットレコーダーと、オープンリールデッキ(こちらも4トラック及び8トラック)をそれぞれ所有してはいるので、時間さえかければ無理なくデジタル化できるはず、とたかをくくっていたのですが、必ずしも状態が良いとは言えないこれだけの本数のテープをボランティアで処理するには自ずから限界があると悟らされました。
そこで、日之春先生の実弟にあたる富山大学名誉教授の松本清先生(以下、清先生)に良い方法がないかご相談してみました。清先生も大学で音楽を教えておられたのですが、実はお二人の父上にあたる松本民之助先生が藝大時代に自宅で開催されていた教え子たちを中心とする演奏会を記録したおびただしいオープンリールテープを保管されているのは清先生の方でした。また、それらのテープをクリーニングし維持保管するための専用レコーダーや高音質なオーディオセットを自主開発してしまうという、音楽家と技術者をアウフヘーベンしたような素晴らしい才能をお持ちでいらっしゃいました。日之春先生ご逝去直前の状況報告に加えて、本件の事情にも耳を傾けてくださった清先生は、とても重要な仕事を頑張っているんだから支援してあげねばと、ご自身が開発されたクリーニング専用レコーダーに加えて、民之助先生が使われていたレコーダーまで添えて貸し出ししてくださいました。これでクリーニングの省力化に目処がつきました。
こうした古いメディアの映像や音声をデジタル化する場合、専門の会社に最初からすべて依頼する手もありますが、これだけの本数とバリエーションですから、少なくとも数百万円単位の予算が必要になります。また、それだけの予算を市に援助してもらうためには、それが如何に重要で意義あるものかを納得してもらわねばなりませんから、学術的に最も重要と思われ社会的インパクトもあるテープのデジタル化に真っ先に取り組むことで、周囲の理解を深めるとともに支援を取り付けようと関係者一同で作戦を立てました。そこで目を付けたのが、ケースの箱に「松下眞一作品」「太古」と書かれた大型の10号リール2本でした。大阪府日本万国博覧会記念公園事務所(大阪府吹田市)などによると、1970年の大阪万博(日本万国博覧会 EXPO’70)当時、太陽の塔があるお祭り広場では、イベントがない時間帯に松下氏の「太古」をはじめとする作曲家4人による環境音楽12曲を、BGMとして床や大屋根に広範囲に設置された450個以上のスピーカーから流していたようでした。調査してみると、これら12曲のほとんどはデジタル化されCDに収録されているのですが、「太古」についてはオリジナルのマスターテープの所在が不明だったためか、過去にデジタル化されたことがない幻の音源の可能性があることがわかりました(写真12)。
ちなみに、1970年の大阪万博における「音楽」ですが、万博のテーマであった「人類の進歩と調和」に合わせ、多くのパビリオンで伝統的なクラシック音楽や流行歌に代わって、当時世界的に盛んだった前衛音楽や電子音楽が導入されました。電子音響機器やテープによる音楽、空間音響の試みが広く認知されたことは、日本の現代音楽やメディア芸術にとって重要な節目になりました。こうした万博における音楽/音響技術の特徴はおおよそ以下のように整理できますが、いずれの観点からも、現代における音楽や各種メディア芸術にまで強く影響を与え続けていることがわかります。
(1)電子音楽・環境音楽における大規模な新技術の実験
会場では、NHK技研の協力で作られた多数の天井吊下型スピーカーによるマルチチャンネル音響システムを使い、360度から音が降り注ぐような三次元空間音響の体験が可能でした(写真13)。また、当時開発が進み始めたシンセサイザーが駆使され、日本の電子音楽の先駆的存在となりました。またこの頃より、録音テープを切り貼りして現実世界の具体音を編集したり、多重録音して楽曲を構成するミュージック・コンクレートのような、伝統的な楽器を演奏する以外の音響技術を用いて音楽を作る考え方も広まりはじめましたが、このような方法で音楽を制作する技術が、現代ではコンピュータを用いることで広く一般化しています。
(2)松下眞一・武満徹など著名な現代音楽家の参加による新たな音楽芸術の広がり
日本人以外にも、世界的な電子音楽作曲家のシュトックハウゼンは、実際に万博に参加してコンサートを行いました。彼は「万博は人類のための大きな実験場」と評しており、サウンドインスタレーションの先駆けとなりました(写真14)。
(3)万博以降の商業音楽や産業界の発展
万博で広く認知が進んだ電子音楽は、その後の日本のポップスをはじめとするメディア芸術に影響を与えただけでなく、日本の電子技術力で次々に開発される優れたシンセサイザーや電子音響機器類が大量生産され、世界に輸出される契機の一つになりました。現在再流行している80年代シティ・ポップ人気は、当時の最先端技術による電子音楽・音響技術を生かして制作された楽曲の魅力によって支えられています。

写真14 70年万博当時各種コンサート会場の一つとなったお祭り広場
松下氏の「太古」はこちらで上演された(野いばらの会イベントフライヤーより)
さて、こうした70年万博当時の社会的背景や意義を踏まえた上で、時はあたかも再び万博が大阪に巡ってくる2025年を目前に控えており、このタイミングで「太古」を再現できれば誰にでも容易に重要性を納得してもらえると期待に胸を膨らませて、ひときわ目立つ大型の梱包を解いてみました。いくらかカビやほこりが付着していたものの比較的状態は良好なようでしたが、テープ幅が一般的な市販製品に比べて倍ほどある1/2インチの業務用であり、私の手持ち機材では再生できないことがわかりました。アナログ録音機器におけるテープ幅や録音時のテープ速度は音質に強く反映されるため、高音質なプロ仕様では数値が大きくなります。早速レコーダーのメーカーに問い合わせてみると、70年万博の頃に市販されていたレコーダーには該当する機種がなく、万博の特注仕様であった6トラックのマルチトラックレコーダーに対応したテープであろうとのことでしたが、ここでも6トラックという仕様に戸惑いました。現在、稼働可能な市販レコーダーは2、4、8、16、32という風に録音トラック数が2の指数乗で増加する仕様であり、6トラックなど現存しないからです。
どうしたものかと悩んでいたところ、メーカーの方から一個人が趣味(!?)で運営されているこだわりの、そして他の追随を許さないオンリーワンの技術力を持ったレコーディングスタジオとして、兵庫県西宮市のスタジオ1812をご紹介いただきました。このスタジオの所有者でレコーディングエンジニアも務める梅谷一弘氏は、大正8年(1919年)に創業し、100年以上の歴史を持つ畳・内装工事会社の社長でもあり、そのサウンド部門としてスタジオを立ち上げた、とのことでした。小林幸子氏の代表曲「おもいで酒」の作曲家として知られる梅谷忠洋氏と、アナウンサーでソプラノ歌手の裕子氏夫婦の長男として生まれ、小さいころからフルートを学んできた生粋のクラシック育ちで、自分の作品をより高品質に録音したい一心で一から学んで作り上げたと伺いました。とはいえ、スタジオの壁面いっぱいになるほど多数のマルチトラック・オープンリールレコーダーを所有しているだけでなく、自ら修理・調整もこなしてしまうハードウェアの知識と、高音質のためには1bitの精度やノイズレベルの限界にまでこだわる妥協のない姿勢が口コミで評判を呼び、これまでにも誰もが知っている有名ミュージシャンの仕事を依頼されたことがある職人肌の実力派でした。本件について相談したところ、スタジオにある16トラックレコーダーを利用した6トラックサウンドのサルベージ案を頂けたので、さっそく二人でスタジオにこもってデジタル化に取り組み、短時間でデジタルデータを手にすることができました(写真15、16)。梅谷氏にはこの場をお借りして深く御礼申しあげます。
4. 人の輪IV ~ソニーの360 Reality Audioによるお祭り広場のリミックス再現~
さて、デジタル化を済ませ、初めて音楽として再生を楽しめるようになった松下氏の「太古」は約30分の楽曲で、太鼓やフルート、シンセサイザーの音、石や金属を叩くような音などが11トラックに分けて録音してありました。正確には2本のテープに6トラック分と5トラック分に分けて記録されていたわけですが、当時はまだ2本のテープを同期して再生する技術がなかったため、おそらく「えいや!」で同時に2台のレコーダーをスタートさせるしか方法はなかったようです。一方で、梅谷氏と一緒に行ったデジタル化の作業では、2本のマスターテープからそれぞれ別にデジタル化した際に、音のスタートとエンドのポイントにずれがないこと、双方に記録された音源が全く同じ時間内に収まることをmsec単位まで確認して、ソフトウェア上で一つのファイルにまとめましたので、疑似的ではありますが同期再生した場合と同様の仕上がりになっています。そういう意味では、今回のデジタル化された音源は、お祭り広場で実際に上演された際よりも厳密に時間のずれが生じないよう制御された理想に近いものといえると思います。
ただ、再生して耳にした音楽の問題はそこではありませんでした。何度か申しあげているように、「太古」はお祭り広場のあちこちに分散配置された複数のスピーカーから各チャンネルの音を流した時に、立体的かつ効果的に聞こえるよう工夫されていました。そのため、通常の2chステレオで再生した場合、音同士が重なり邪魔しあって、それぞれのフレーズや音の位置関係をつかみにくく、最初の数分耳にしただけで聞き疲れするノイジーな音源にしか聞こえませんでした。一方で、映画館でみられるサラウンド効果の音響システムなどはよく知られていますが、今回のように11トラックものサウンドをそれぞれ他の音源から分離し任意の位置に定位させて、空間としての響きを再現する技術はまだまだ普及していません。
そんな時、奈良女子大学工学部のアナログ回路/デジタル回路の講義をご一緒していたソニーのDistinguished Engineer澤志聡彦氏から、同氏のグループが開発した「360 Reality Audio(サンロクマル•リアリティオーディオ:以下「360RA」と表記)」のお話を伺って、これだ!と閃きました。すぐソニーに協力を依頼し、通常の音響機器の左右2個のスピーカーでは重なり合って聞き取りにくい11トラックの音それぞれに位置情報をつけ、バーチャルに360度の音響空間を再現して立体的に聞こえるよう楽曲の空間的再構成に挑戦しました。残念ながら、当時何チャンネルの音がお祭り広場のどのスピーカーから送出されていたかを示すチャートや記録は発見することができませんでしたので、これに関しては当時通りの厳密な再現と申しあげることはできません。しかし、音の空間的な分離がよくなると、それぞれのチャンネルから聞こえてくる音の了解度や定位の安定度・正確度も増し、結果的に一つ一つの音のつややかさやキラメキ具合が増したようにも感じられ、また空間的に配置されることで音の前後や左右方向への動きやゆらぎも加味されて、最初に2chステレオで聞いた時とは全く異なり、30分の全編を通して聴いても疲れず、音や作品自体への集中力が持続する効果が得られました。
ただ、それもオリジナル音源の素材の良さあってのものでした。東京・乃木坂のソニー・ミュージックスタジオに持ち込んで、関係者とはじめて音出しをした際に、同室したメンバーから「ほお」という感嘆の声がもれました。とても50年前にアナログ録音したとは思えない自然な高域の伸びやかさや艶やかさ、一つ一つの音の粒立ちの良さ、ノイズや歪の少なさなど、さすがに万博に向けて当時最高峰の録音技術と予算・時間をかけて制作された作品の持つクオリティの高さが、誰の耳にも、そして心にも、うなずきが広がった一瞬でした(写真17)。
その後、何度かソニー・ミュージックスタジオに通って、エンジニアの方々とああでもないこうでもないと議論・相談しながら聞こえ方の最終調整を行いました。その中で、当時は不可能だった、音が空間的に移動したり回転したりすることで、まるでプラネタリウムの聴覚版のように浮遊感覚を体験できる、全く新しい空間的リミックスにもチャレンジしてみました(図2)。音の空間定位が自由にコントロールできるようになると、メロディラインや音色といった、従来から音楽の印象に強く影響を与えるとされてきた要素に加えて新たな音楽表現が可能になり、またそこから新しいスタイルの音楽や音の利用方法、ミュージック・シーンが創造されるかもしれません。澤志氏の退職後に後を引き継がれた同社主幹技師の浅田宏平氏は、「完成した音源を聴くと、空間を表現しようとした作曲の意図が伝わる。曲のパワーや50年の時を経た音楽技術の進歩を感じてほしい」と、最初にあげた読売新聞の取材にコメントしています。
実はこの完成したサウンドを、2025年1月13日に奈良県立大学で開催されたユーラシア研究フォーラム2025「奏でるアジア」の講演にて、こっそりちょっぴり頭出ししてみました。この時、著名な音楽家である城之内ミサ先生がスペシャル・コンサートに来てくださっていたのですが、とても興味を持って励ましてくださり、不安だった本番上演への勇気が湧きました(写真18)。また、ご一緒に活動されている高桑英世先生(フルート・篠笛奏者)からは、「フルートの演奏スタイルや癖が藝大の先輩にとても似ているが、演奏者はわかりませんか?」と演奏家らしいご質問を賜りました。残念ながら、私の手元には録音時のスタッフや演奏者等の情報が全くありません。もし、読者の方が当時の演奏家の情報をお持ちでしたら、是非ご教授ください。
5. 人の輪Ⅴ ~最後にもう一仕事。かくして、時の輪は1つにつながった!~
さて、楽曲は再現できたとして、この音を来場者の耳に届けるためには、最終段階としてアンプやスピーカーのセッティングが必要です。特に、今回は三次元立体音響を実現する特殊なシステムですので、繊細な調整なくしてリアリティは生まれません。もちろん事前に、部屋の広さや残響の具合、人や展示物の存在など、あらゆる要素を考慮して音響設計・デザインをされるわけですが、最終的には現場でのワンオフ・セッティングになります(図3、4)。さすがにこれは相当の経験者でなければ、せっかくのシステムの持つポテンシャルを生かしきれず、かえって効果が薄れたりして残念な結果に終わってしまいます。
今回は、ソニー株式会社(以下ソニー)から360RA音響セッティングのプロ、渡辺忠敏氏が出張して来られ、直々に調整を行っていただけることになりました。渡辺氏は、ちょうど同じ時期に、新しくできたばかりのグラングリーン大阪内のイベントスペースVS.にて開催されていた「sakamotocommon OSAKA 1970/2025/大阪/坂本龍一」にて、坂本氏が前述した乃木坂のソニー・ミュージックスタジオで360 Reality Audioミックスに立ち会った最後のオリジナルアルバム「12」の音環境再現を担当されていました。全く偶然の運命的同期だったのですが、坂本氏が70年万博で得たインスピレーションや感動を今回の万博に合わせて体験する企画は、まさに松下氏の音源再現とイベント的にも技術的にも双対をなすものと言え、これまでご紹介してきた人の輪の最後をつなぐにふさわしい、最終ピースが奇跡的に埋まりました。
かくして、「1970年と2025年の二つの万博をつなぐ時の輪」が完成しました。考えられないほど多くの方々のご協力と、その方々の様々な思いを乗せて再現された松下氏の楽曲「太古」を披露する「EXPO’70大阪万博お祭り広場再現イベント」は、2025年9月25日午前10時〜午後7時、茨木市文化•子育て複合施設「おにクル」多目的ホールで開催され、50年前の万博サウンドを体験したいと700名以上の来場者を記録する大盛会となりました(写真19、20、21)。会場となった「おにクル」自体も、2025年の「みんなの建築大賞」でジブリパークなど他の候補を抑えて、一般投票1位(大賞)と推薦委員会ベスト1をダブル受賞し、建築界で非常に高い評価を受けましたが、そこで上演するにふさわしいイベントに仕上がったように思いましたし、実際体験してくださった方の印象はとてもよかったようでした。ちなみに、会場には茨木市長をはじめ、多くの市の幹部や政治家、経済界の方々も駆けつけてくださいました。市としても印象を良くしていただけたのか、来年度も引き続きデジタルアーカイブ事業を継続されるように伺っています。
(前方のスクリーンでは当時のお祭り広場の実写映像、左壁面側には当時のオリジナルパンフレット等の資料を万博協会のご厚意により展示。また、右壁面側では野いばらの会が用意した松下氏の各種資料を展示)
以上、長い話にお付き合いくださってありがとうございました。今回のリミックス再演では、過去同様の広い空間や多数のスピーカーを用いることなく、360RAを用いて来場者に当時の三次元立体音響を体験していただくことができました。過去の音楽が、未来の技術を用いて、現在に蘇った瞬間でした。万博会場そのものでの実施ではなかったとはいえ、2025年の万博に一つの歴史的ページを付け加えることができたように感じています。
イベント直前、私は主催者の茨木市から、会場に設置する本企画の解説ポスターの製作依頼を受けました。「おにクル」の場所柄、見学に訪れてくださった家族連れ・子供連れの皆様に、教育の観点からアピールできる内容を期待されたように受け止めた私は、「万博を通して学ぶ音楽/音響技術」というタイトルをつけました。そしてその最後に、
- ①どのような原理で空間に音を定位させることができるのでしょうか?
- ②普通のステレオではなく三次元に音を配置できることのメリットは何でしょうか?
- ③最先端技術を応用して、どんな未来の音楽制作が可能になるでしょうか?
と質問を投げかけてみました。
私自身、①はともかく、②はこれからも新しい発見が色々ありそうで、③に至ってはまだまだ模索中の段階です。答えのない質問を書いている自分自身に責任感を問いたい気持ちがある反面、それこそが技術の醍醐味ではないかと信じる自分がいるのも感じます。芸術と技術が融合する領域だからこそ得られるこの快感や未来感をこれからも大切に、未来に生きる子供達や若者をはじめとする多くの人々にその良さを伝え、また身近な人々とその良さを分かち合えていければよいな、と思います。
謝辞
本音源再現企画イベントは、以下の方々が誰一人として欠けては実現できませんでした。この場を借りて、改めて深く深く感謝を捧げます。この企画でご一緒に得た叡智と経験が、明るい未来への架け橋となりますように…。
- 本文中にお名前を上げさせていただいた先生方、皆様
- 野いばらの会の皆様
- 茨木市役所の皆様
- ソニー 神澤様、ソニー・ミュージックスタジオ 中山様、内藤様、奥田様
- サントリーホールディングス 室元様、サントリーSPS 青木様
- 日々の活動を支えてくださった石田様、、またイベントに来訪してくれた多くの友人、妻と三人の息子たち
本稿は、日本オーディオ協会専務理事の末永信一様、及び同理事の浅田宏平様からの強いご要請により執筆させていただくことができました。このように貴重な機会を与えてくださったお二人に、心より感謝申しあげます。また、お二人が日本オーディオ協会主催イベントである音の日2025の「音の匠」顕彰式に私を招待してくださったおかげで、若き日の憧れだった向谷実様との出会いがあり、まったく予期しなかったもう一つの輪もつながりました。こちらにも深く感謝申し上げます。
筆者プロフィール

- 才脇直樹(さいわき なおき)
奈良女子大学副学長(研究及び地域連携担当)。同大研究院工学系教授(工博)及び大阪大学大学院基礎工学研究科(石黒研究室)特任教授、岡山県立大学地域創造戦略センター客員教授等を兼任。
大阪府立茨木高等学校から大阪大学を卒業後、大阪大学大学院基礎工学研究科助手、講師を経て、ロンドン大学CBCD(Centre for Brain and Cognitive Development:通称Baby Lab)及びスタンフォード大学CCRMA(Center for Computer Research in Music and Acoustics)客員研究員。その後、ATR知能ロボティクス研究所客員研究員、甲南大学知能情報学部教授等を経て現職。
人間情報学会設立発起人理事をはじめ、各種学会役員やG20京都会議運営委員、E-Textile国際標準化WG主査等を歴任。平成22・26・29年度日本学術振興会科研費優秀審査員表彰、IEEE LifeTech 2019 Excellent Paper Award、第21回ヒューマンインタフェース学会論文賞等を受賞。
著書は、感性情報学(工作舎)、スマートテキスタイルの開発と応用(CMC出版)他。






















