2021autumn

連載:思い出のオーディオ Vol.4

一般社団法人日本オーディオ協会会長小川 理子

私の会社員としてのキャリアは音響研究の技術者でした。同時に大の音楽好きで自分でも演奏していましたから、音楽家との接点には大いに興味があり、自然とそういう交流を求めていたせいか、ある時、他社様から貴重な経験の機会を与えていただきました。トヨタ自動車様です。ちょうど1990年代から2000年代前半は、日本における企業メセナ活動(芸術文化支援活動)が熱心に取り組まれていた時代で、その頃トヨタさんもウイーンフィルやベルリンフィルを招聘してメセナの一環でコンサートを開催されていました。トヨタの社会貢献部門の責任者の方と私は、レナード・バーンスタインが生涯を閉じる直前に創設したパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を通じて出会いがありました。PMF創設にあたって、その理念に共感した4つの企業が大きくサポートをすることになり、その4社の中に、トヨタと私が在籍するパナソニックが入っていました。4社の協議で、PMFの演奏を記録する、記念CDにして出演者に配布する、というアイデアが浮上し、そのお役目をパナソニックが引き受けることとなり、当時音響研究の一環で音源を収録していた私たちに白羽の矢が立ったのです。その仕事ぶりを見てくださっていた前述のトヨタの社会貢献部門の責任者の方が、「今度ウイーンフィルのメンバーを招聘して、トヨタ主催で国内生産累計1億台を記念して、これまでのご愛顧に感謝してコンサートを開催する、ついてはその演奏を記録し、CDにしてもらえないか」と打診がありました。こんな研究所の私たちがそのような重要な仕事をお引き受けして本当にいいのでしょうか???と何度も確認をしましたが、その研究心、探求心こそがいいのだ、ということで、貴重な機会をいただいた次第です。トヨタ・ミレニアム・コンサートというタイトルで、演奏者はトヨタ・マスタープレイヤーズ,ウイーンというウイーン・フィルハーモニー管弦楽団とウイーン国立歌劇場管弦楽団からの首席クラスのメンバーを中心に編成された世界トップレベルの演奏家30名による特別な室内楽団でした。そのときの監督が、クラリネットのペーター・シュミードルさんでした。

時は2000年4月27日、場所は札幌コンサートホール(Kitara)でのライブ収録です。3曲演奏されましたが、3曲ともモーツアルト。「クラリネット協奏曲」と「ジュピター」が大曲でした。札幌コンサートホールは初体験でしたが、ベルリン・フィルハーモニー(ホール)をお手本にして設計されており、ホールの響きは、ゆったりと豊かで、中島公園内にあるというロケーションが音楽には絶好の雰囲気を醸し出し、バックヤードもとても広くて、各楽屋は中島公園の緑を見ながらリラックスして過ごせるようになっています。本当に素晴らしいホールでの、一流演奏家の演奏を収録させていただける、ということで、私たちは準備段階からもうワクワクドキドキ、とにかく最高の演奏記録になるように、細心の注意を払って本番に臨み、無事収録を終えることができました。今から思うと20年以上前の出来事ながら、あのときのワクワクドキドキが蘇ります。

そして、収録後の編集作業が大変でした。特にペーター・シュミードルさんのクラリネット協奏曲の編集作業には、ご本人に同席いただき、ご指示を忠実に実現してご納得いただかなければなりません。シュミードルさんは完璧を目指されており、演奏上ミスとも思えないようなわずかな音の強弱やニュアンスの違いに対して、繊細に指示をされて修正を求められました。デジタル録音ですから、修正に関しては技術も進歩し、かなりのことが実現できますが、それでも聴覚神経を全集中して、聴いて本当に納得いくレベルかどうか、音楽の流れに違和感がないかどうか、を確認するのは相当疲れました。結果的に、シュミードルさんもトヨタさんも皆さんにご満足していただけるCDに仕上がった時には、私自身の歓びひとしおでした。

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もちろんパナソニックのメセナ部門からも収録とCD化の依頼は当時たくさん受けており、日本イタリア協会を設立された中川牧三先生からご依頼を受けたイタリア声楽コンコルソや、ジャパン・ヴィルトゥオーゾ・シンフォニー・オーケストラの三枝成彰さん、大友直人さんからのご依頼を受けた新年恒例のコンサートなども、いい緊張感の中で収録編集をさせていただきました。

特に面白かった仕事は、渡辺香津美さんと福田進一さんのギターデュオによる「禁じられた遊び」の96kHz/24bit及びマルチチャンネルの収録とDVD化です。これは1998年にテイチクエンタテインメントから発売されましたが、DVDビデオのフォーマットをフルに活かして、いい音質の音楽モノを世に出そうという企画で、お二人のギターの名手が、世界中のアコースティックギターの名器を何種類も使って演奏されました。演奏も素晴らしく、ギターの音色も素晴らしく、選曲も素晴らしく、AV誌が評価するその年のディスク大賞のグランプリをいただきました。私たちはまだ開発したてのレコーダーを山梨県の山奥の小さなホールに持ち込んで、皆さんと合宿して収録したのです。もともとギターの音色は好きですが、お二人の手にかかると、名器の深く温かい音色が一段と輝きだし、こういう本物の価値というものを次世代の子どもたちに残したい、という私の初心がムクムクと燃え上がっていきました。アコースティックギターのデュオにはちょうどいい、繊細な音色のニュアンスも全て収録しきれるようなホールでした。山奥ですし、本当に静かな静かな場所で、弦がポーンとつま弾かれて消えていくまで、頭の中がシーンと浄化され、心の中にズーンと沁みこんでいく、そんな体験で、日頃の疲れもふっとびました。私たちが一番多く経験してきたワンポイントマイクと、細やかな指使いまでも感じるような弦の音を拾うマイクを設置し、後々のことを考えて、2チャンネルもマルチチャンネルも、あらゆるフォーマットで収録しました。清らかで生命力にあふれた渾身の作品になったかと思います。

もう一つ、記憶に残る面白い仕事がありました。作曲家の吉松隆さんが、東京のとあるコンサートホールでファゴット協奏曲を初演されるときのこと。ファゴット奏者が舞台の前に出てソロを演奏されるのですが、オケの音にちょっと負けてしまうので、少し補強するようなスピーカーはありませんか、コンサートなので無骨なスピーカーはふさわしくない、というご依頼がありました。当時、音響研究所で、楽器型のスピーカーを開発しており、そのスピーカーのことをご存じだった吉松さんのご親類のデザイナーからお話しがありました。私たちの開発したスピーカーは家庭用でしたので、本当に大丈夫かな、と一度実験をしてみることにしました。もとより、ファゴットの生音をマイクで拾って、生音の限りなく近い音をスピーカーから客席に向けて出し、お客様にはあたかもファゴットの生音だと聴こえるようにしなければなりません。スピーカー臭さがちょっとでも出るとだめなのです。開発していた楽器型スピーカーは、原理的、形状的に、特に管楽器を生々しく再生することができていたので、いけるかも……という期待とともに、当時大阪フィルハーモニーの首席ファゴット奏者の方に会社まで来ていただき、所内のスタジオで実験をしました。間近で聴くファゴットの音は、太く豊かで、芯の強さとともにふっくらとした丸みがあり、何とも心地の良い音でした。この直接音を拾うためのマイクの設置位置も、あらかじめプロの収録手法が何通りもあることを確認し、それをいろいろ試してみて、奏者の方にも音を聴いていただき、一番生音に近く聴こえる方式を採用することにしました。マイクのみならず、スピーカーの位置や再生音量にも気を遣いながら、世界初演のファゴット協奏曲は無事終了したのです。

さてさて、普段なにげなく聴いている音楽、今はYouTubeなどで手軽に聴ける音楽の世界が果てしなく広がっていますが、その裏には、様々な挑戦や苦労が隠されていることも忘れてはいけないですね。