2021summer

連載:思い出のオーディオ Vol.3

一般社団法人日本オーディオ協会会長小川 理子

いよいよ東京オリンピック・パラリンピックが開幕しました。ワクチン接種が進んではいるものの、まだ感染状況は落ち着きを見せず、とにかく無事に開催されて選手の方々が十分に力を発揮して競技に挑まれることを祈るばかりです。

さて前回は、再生側の音の評価をするにも、入口の音源によってずいぶんと評価に影響する、その音質探求にどんどんのめりこんでいく私のジャーニーの始まりに少し触れさせていただきました。奥深いオーディオの世界は、作曲家の意図、演奏家の表現、指揮者の想い、収録や編集やマスタリングなどの製作プロセス、マイクロホンの選定やホール音響など、いずれにせよアートもテクノロジーもサイエンスも総合的に把握して理解して完成度を高めていくという、そういう世界です。今でいうSTEAM教育(サイエンス、テクノロジー、エンジニアリング、アート、数学、の融合)のようなものかと思います。私は幸運にも、新入社員の初めての収録実験を、コンサートホールでの本番の演奏の機会に許していただく、というところからスタートさせていただき、何という宝物のような経験をさせてもらったことかと、当時を思い出します。もちろん、ベテランの先輩に教わるわけでもなく、近くに専門家がいるわけでもなく、新入社員の同僚と私の二人でせっせと専門書や論文を読んで学びながら実地実験をする、収録した音を評価して改善して次に臨む、という繰り返しでした。

実験開始初年度、ニューヨークシンフォニックアンサンブルの真夏の日本ツアーに、私たち新人社員2名で収録研究員として付いてまわりましたが、特に印象に残っている場所が、2か所ありました。

1か所は島根県の出雲大社の拝殿。当時、日本の様々な神社仏閣で音楽ライブイベントが増えだして、大変興味深い企画でもありました。管弦楽団は拝殿の中で演奏するのですが、あいにく天気が悪く雨になり、拝殿の外でコンサートを鑑賞する観客の方々には簡易の雨合羽が配布され、それを着て(傘がさせないので)最後まで大社での貴重なコンサートを楽しまれていました。

私たちは、この貴重な機会を収録させていただくのだから失敗してはいけない、と非常に緊張して臨みました。ただ、拝殿の中は、マイクを設置するスペースも十分になく、コンサートホールのように天井も高くなく、収録場所としては大変困難を極めました。マイクはB&Kの無指向性マイク2本、収録メディアはDAT。それも、拝殿の中で機材スペースも十分にとれないということで、何とポータブルDATだったのです。苦心しながらもリハーサルの時は比較的クリアな音に収録できたと思っていたのですが、本番になると何かノイズのようなものが入る、何のノイズ?何かカサカサいっている…。あっ、と気づいたのが、本番で配布された観客の方が着ている雨合羽がこすれあっている音です。あああ、マイクが無指向性だから拾ってしまうのだ…。でも、よく聴くと雨音も混じっています。拝殿は全ての扉が開放され、少しでも楽団の音が外に響くようにと配慮されましたが、逆に雨音も拝殿の中に入りこみます。単に鑑賞者として聴いていると、雨音など気にはならずに演奏に集中できるのですが、収録音をヘッドホンを通して聴くと、すごく気になるのです。意識次第で音の聴こえというのは、いかようにでも変化します。

まぁまずは実験だ!と割り切って腹をくくると、今度は楽団の人たちの振る舞いにびっくり。拝殿の中ですから、靴を脱がなければなりません。夏とはいえ、雨も降っており、少しひんやりと感じられますし、ましてや靴を脱ぐと足元はスカスカとなんとなく頼りなげな感じがしていたのか、バイオリンの皆さんはバイオリンケースを足元に置いて、その中に足を入れて弾いておられます。日本の夏は湿度が高く、それでなくとも弦楽器の方々は音がいつもと違う、と神経質になっておられるのに、いつもと違うスタイルでさぞ演奏しにくかったことでしょう。でもさすがはプロで、皆さん何事もなかったかのような表情で素晴らしい演奏をしておられました。演奏されたサミュエル・バーバーのアダージョは、その場にふさわしい荘厳な音楽であり、雨音にかき消されそうなほどのピアニッシモの音にも、観客の皆さまは耳を澄ませてしっかりと感じておられました。

収録実験に臨むにあたり、私たちが無指向性マイクを選択したのには、理由がありました。私たちの場合は商業用の収録ではなく、あくまでも研究でしたので、楽器の直接音と空間の間接音との最適バランスを探求する、空間の最適位置を探してワンポイントマイクによる収録をする、実際に聴いて心地良く感じる音とはどういうバランスかを探求する、という目標を決めました。もちろんマルチマイクによる収録手法も考えられましたが、最小限のワンポイント収録で、音の響きに関する様々な気づき、学びを得る、というのが第1段階でした。加えて当時、テラークレーベルのワンポイント収録の音源が、非常にナチュラルで、再生系の評価音源にも使っていましたので、私たちも独自の評価音源にできるのではないかとワンポイント収録にトライしました。

もう1か所は姫路のパルナソスホールです。このパルナソスホールは、ゴシック調の華麗な装飾に彩られた音響の良さを追求されたシューボックス型です。座席数が約800席で、実際に音を聴いてみると、演奏者と聴衆の一体感が感じられる、非常に響きの良いホールでした。楽団の編成と、ホールの大きさがちょうどバランスよく、ワンポイントでかなり濃密な音楽の表現力を得ることができました。また、この時のトピックスですが、当時8歳だった樫本大進さん、今ではベルリンフィルのコンサートマスターですが、その演奏を収録させていただいたのです。当時はまさかこの小さな男の子が、将来世界に冠たるベルリンフィルのコンサートマスターになろうとは夢にも思わなかったのですが、とにかく舞台上で堂々とバイオリンを演奏する姿が印象的でした。そして、どうやらモテモテらしくて、リハーサルが終わった後の休憩時間に、同じ年ごろの女の子たちがキャーキャー言いながら、大進君の周囲を取り囲んでいたのも鮮明に記憶しています。実は、その時から20年後のこと、樫本さんとベルリンで再会する機会があり、その時の思い出をお伝えし、その時に収録した音源をお渡ししますと、大変驚き喜んでおられました。やはり音の記録というのは素晴らしい、時間と空間を超えてつながることができるのだ、とつくづく感じたものです。

収録による音や響きの研究は、これを皮切りに何年間にもわたり、様々な経験、活動を通じて多くの学びを得ることができ、音楽という芸術文化を理解するためには、音の入口から出口までのトータルのプロセスを知らなければいけない、と強く認識するに至りました。次回も引き続き、収録にまつわる「思い出のオーディオ」をお届けしたいと思います。