2023summer

個人会員に聞く!
第1回 大橋太郎氏

インタビュアー 末永信一(専務理事)

2023年の総会も6/9に無事に終了し、6/24、25にはOTOTEN2023を開催し、4300人を超えるオーディオファンの方々にご来場いただきました。アフターコロナの時代になり、人々の交わりがようやく戻ってきたと感じる今日この頃です。今年の総会は会場の都合もあって、会員の皆様には引き続きご出席を控えていただきましたが、来年はリアルな会議を開催したいと考えております。

さて、会員の皆様から総会に向けて、たくさんのコメントをいただき、ありがとうございました。その中で、直接お話を聞いてみたい、あるいは古い時代の日本オーディオ協会の活動についてなど、様々なお話を聞いてみたいと思う個人会員の方々がいらっしゃいますので、これから順番に訪ね歩こうと考えています。それでどんな話が聞けたかをJASジャーナルに報告していくようにしたいと考えております。

その第一弾は大橋太郎氏。現在の肩書は電波新聞社の特任ライターですが、今から40年くらい前は「マイコンBASICマガジン(以下、ベーマガ)」の名物編集長だった方。このベーマガに育てられた当時の青年たちは、現在50代や60代であり、自らを大橋チルドレンと言います。今なお、大橋さんは子供たちに科学の興味を持たせるための活動を続けられており、日頃より私はそういう大橋さんを心から敬服して止まないのであります。


電波新聞社を訪問し、インタビューさせていただいた

1. 協会との関わりについて

末永) 大橋さんのオーディオ協会との接点は、いつ頃からですか?

大橋) ベーマガをやる前に、「ラジオの製作」という雑誌の編集部にいて、その中でオーディオフェアを取材したりしていたんだけど、その頃はまだまだペーペーだったから、オーディオ協会の打合せに入るなんて、そういうご身分じゃなかった。ただ、電波新聞社とオーディオ協会は昔からかなり親密な関係が築かれていて、オーディオ製品についての紹介記事を書いたりすることも多くて、その際には、よく相談に乗ってもらったりしていましたね。

末永) では、大橋さんが個人会員になられたのは、いつ頃なんですか?

大橋) 電波新聞の役員になった頃だから、50歳ちょっと。その頃は日本オーディオ協会の個人会員というのは、ちょっとしたステータスだったんですよ。

末永) ほお!そういう感じですか。

大橋) 個人会員になったおかげで、たくさんの人達と知り合いになれましたし、色んな人がいたなぁ!世界が広がる感じでした。そんなにみんながみんなオーディオマニアという雰囲気ではなく、色々と話をして楽しく集まるところ、それが良かったんじゃないかな。

末永) なるほど、私が専務理事になった2020年、コロナ禍が始まってしまい、法人会員であろうと個人会員であろうと、多くの方々と直接お会いできなくなったので、会員の皆さんと、どういうコミュニティ運営をしていったらいいのか、めちゃくちゃ迷っていたのですよ。

大橋) コロナ禍も終わったし、これからですよ!専務は明るい方なんだから、堅苦しく考えないで、楽しくやればいいじゃないですか。

末永) ありがとうございます。

大橋) それにね、僕の誕生日は「音の日」、つまり12/6なのよ。だから、みんなが「音の日」に集まってくれて、私の誕生日を祝ってくれるってのは、うれしいじゃない!

末永) それはおめでたい話ですね(笑)

2. オーディオ熱が熱かった頃

末永) 1980年代など、オーディオフェアが華やかだった頃は、世の中のオーディオに対する期待みたいなものは、今とはずいぶん違ったんでしょうね。

大橋) 「ラジオの製作」なんかもそうだけど、当時はいろんな雑誌があって、若い人たちはみんな雑誌を食い入るように見て、新しい技術の先取りをした。オーディオフェアに来る若者たちは、我先に新製品のことを知りたいと集まっていたし、そういうことに熱心なオーディオファンってたくさん居て、今でいうコミュニティ的な集まりもたくさんあったんですよ。

末永) 大橋さんはベーマガなんかもそうですが、ブームを作る仕掛け人ですよね。

大橋) 仕掛け人というわけじゃないけど、やっぱりやるからにはNo.1にならないと面白くないから、色々頑張っちゃうわけだよ。

末永) 例えば、どんなことをされたんですか?

大橋) 「ラジオの製作」の中で、機器の紹介だけでなく、レコードの紹介とか始めたら、そのうちビルボードのことなんかも話題にするようになって、やっぱりハードだけじゃなくて、ソフトも一緒に扱っていかないといけないと、この頃から考えるにようになったんだよね。

末永) なるほど、それが後に、ベーマガでゲームソフトの話題を取り上げていくことにつながるわけですね。

大橋) あの頃は、雑誌を3誌くらい掛け持ちで働き詰めだったけど、楽しくて時間を忘れましたね。

3. 少年時代の話

末永) 大橋さんが初めてオーディオを意識したのは、いつ頃なんですか?

大橋) 私が小さい時、叔父が同居していて、その叔父が持っていたステレオをよく聞かせてくれたんだけど、中には、ピンポンの音が入ったレコードなんてものがあってね。右と左のスピーカーの間をピンポン玉が飛び交うんだ。あれは面白かったなぁ!ついつい顔が、こう、こんな感じで右に左にと動くわけよ。ちょうどまたその頃、ラジオ2台で聞く立体放送というが流行っていて、スピーカーの無いところから音が聞こえてくるというのが、本当に不思議で不思議で面白かったな。

末永) 立体音楽堂って番組ですね。なるほど、いい環境にお育ちになったのですね。もうその頃に、秋葉原デビューですか?

大橋) その叔父に連れられて、7歳だったかな、通い始めたのは。中学2年生の時にはアマチュア無線の免許を取って、無線機も自分で作ったりしていました。

末永) 中学生でアマチュア無線の免許って、すごいですね!自分で買ったオーディオとか、あれは欲しくてたまらなかったといった思い出はありますか?

大橋) ラックスキットを買って組み立てたことだったかな。

末永) それはまたスゴッ!!

大橋) もう、子供の頃から秋葉原には入り浸って、自分のものは自分で組み立てるなんてことは、やりたくてウズウズしていたわけですよ。

末永)ラックスキットなんて、私は話にしか聞いたことがなかったので、やっていた人が目の前にいるのは感激です。

大橋) 末永さんは?

末永) 私も物心がついた頃には家にステレオセットがあって、両親が映画好きだったもので、映画音楽のサントラのレコードを家族で聞いたりしていましたね。でも、自分で最初に買ったものは中学生の時のBCLラジオの「スカイセンサー」ですかね。まぁ、オーディオというニュアンスじゃないかもしれませんが。

大橋) BCLラジオ、流行ったよね!

末永) 親にはラジオ講座を聞いて勉強するとか言っておきながら、深夜放送とか音楽ばかり聴いていましたが、一方で短波放送のピーとかガーとかいうノイズを掻き分けながら海外の放送局を受信して、言葉は分からないなりに、世界の広さを感じていたのは、なんか楽しかったですね。

大橋) 懐かしいねぇ。

末永) また、その頃はちょうど民放のFM局が出来た時代でもあり、いい音で洋楽がたくさん聞けるようになったのが私の人生に大きな影響を与えてくれましたね。その頃は特にThe Eaglesに陶酔して、お金を貯めてレコードを買う様になったあたりが、私のオーディオの幕開けでしょうかね。

大橋) そう、先ほども言いましたが、ハードだけじゃなくて、ソフトが大事なんですよ。

末永) まさにそうかもしれません。そのお気に入りのソフトをいかにきれいな音で聴くかとか、FMを録音して楽しむということに手を出し始めたのがオーディオ好きになったきっかけかもしれません。

4. ベーマガの時代

末永) ところで、世の中的には大橋さんと言えば、パソコン黎明期から雑誌編集者として名を馳せられていたわけですが、先ほどの子供時代の話からあまりつながりが想像できないのですが、その辺りのことを教えてください。

大橋) まず、電波新聞社に就職する時の話になるんだけど、その頃、アマチュア無線界では私はけっこう有名人になっていたもので、採用試験で面接をした方が、私のコールサインを見て、君か!ってなったんですよ。あの頃は電波新聞社にそういう面白い人がたくさん居たんだよね。後にオーディオ評論家になった人なんかもいたし、多才な人たちが揃っていたね。

末永) 電波新聞社出身のオーディオ評論家になった方、はい、よく存じております(笑)

大橋) アマチュア無線をやる人は、モールス信号が使えるから、ト・ツー・ツー・ト・ト・トと、ついついそういう情報伝達もやるわけ。

末永) ほほぉ、なるほど。

大橋) モールス信号が使える人たちにとって、パソコンは入ってきやすい環境だったんじゃないかな。アマチュア無線をやっていた人たちはみんなすぐにパソコンに飛びついたよ。

末永) ああ、ピーー・ヒョロヒョロヒョロってテープレコーダーでデータをロードしたりしていましたが、なるほど、音がモールス信号に似てますねぇ。

大橋) それで、「ラジオの製作」の編集部から「月刊マイコン」を創刊したら、瞬く間に「ラジオの製作」の部数を超えてしまってね。

末永) ちょうど1970年代には関数電卓の競争があったし、デジタル化のマグマが世の中にたまってきていたんでしょうね。

大橋) 札幌のアマチュア無線仲間だった、後にハドソンの社長になる方と「ゲームだ!ゲームの投稿を募集してはどうか?」ってことで意気投合して、「マイコンBASICマガジン」が始まるわけ。

末永) ああ、そこでまたソフトの重要性を見出されるわけですね。


マイコンBASICマガジン いわゆるベーマガ

大橋 )末永さんは、パソコンの方はいつから?

末永) 高校生の時に、友達がパソコンの原型のTK-80というボードマイコンを見せてくれましてね。

大橋) そりゃまたお金持ちの高校生がいたものですね!

末永) 考えてみたらそうですね。で、これに不思議な世界観を感じまして、それからは、コンピューターエンジニアになることを目指して大学は工学部に進み、ちょうどNECのPC-8001が発売された頃に大学生になったもので、まさに在学中はパソコンブームの真っ只中でした。少々のアルバイトで買えるような金額じゃなかったので、一式揃ったのは2年生が終わる頃でした。

大橋) それはまた、ソニーに勤められていたイメージとは全然違うじゃないですか。

末永) そうなんです、それはそれで長い話になるので、また別の機会に(笑)

大橋) あははは、ああ、そお!人生いろいろあるよね。

末永) 当時はソフトも簡単に買えるような値段じゃなかったので、雑誌に掲載されている数字の羅列をひたすら打ち込んで、これが簡単に動けばいいんですが、なんで動かないのかな?なんてことがよくあって、翌月号に誤記訂正が出たりして、めちゃガッカリ!なんてね、そんなことばっかりでした。おかげで逆アセンブルして調べることをやったり、相当に鍛えられました。

大橋) 今のメディアの人達は、将来どうなるかを考えて記事を書いたりしていないけど、その頃はハードメーカーもソフトメーカーもそしてメディアの人達も一緒になって将来を語り合っていたからね。

末永) 大学生や社会人になった頃、私は大阪や京都に住んでいたので、大橋さんが開催されていたイベントに参加したことはありませんが、読者も一緒に将来を語り合っていたんじゃないでしょうか。

大橋) そう!そうなります。

末永) それは、楽しそうです!初期のパソコンはピーとかプーという音しか出なかったのが、大学の研究室で購入したパソコンはFM音源が使えて、これすごいじゃん!と思っていたら、その数年後にMIDIが出てきたりして、ヤマハっていい会社だなぁと思ったものですが、こんな感じで、どんどん新しい技術が育まれて、本当に楽しい時代でした。

5. 大橋さんからのコメント

今回の総会に際し、大橋さんから、以下のコメントが寄せられました。

オーディオを楽しむ人々は増加しています。幅広い層への啓発を進めてください。
 ① 若い人たちへのアプローチ
 ② 一般の人たちへのアプローチ
 ③ 高齢者増加にともなう「聞こえのバリアフリー化」の推進

この件について、大橋さんと以下のような話をさせていただきました。

① 若い人たちへのアプローチ

末永) 聞くところに寄ると、21世紀に入って以降、日本オーディオ協会に近寄ってくる若者は皆無だったと思われます。

大橋) そう、音楽を聴く若者は変わらずたくさん居るのだけど、協会に若者がたむろってくる雰囲気はありませんでしたね。

末永) 私が専務理事になってから、「学生の制作する音楽録音作品コンテスト」のこれまでの受賞者たちにコンタクトしてみると、みんな協会に何か協力できることがあれば協力したいと言ってくれるんです。そんな若者たちを、従来は授賞式が終わったら、ほったらかしにしていたんですね、もったいないことに。

大橋) なるほど

末永) それで今、その人たちと会話しながら、若い人たちへのアプローチを検討しているんです。今回も、OTOTENに向けてそういう声を反映させたりしています。この若者たちには小川会長も、めちゃ期待しているんです。

大橋) 素晴らしいね~!ぜひその活動を続けてください!小さいお子さんへの工作教室もやりましょう。お手伝いしますよ!

末永) ありがとうございます。

大橋) もうねぇ、レコードの溝を虫めがねで見せると、めちゃくちゃ喜ぶのよ!

末永) なんでも電子化された時代だけに、そういう物の形が見えるというのは大事なのかもしれませんね。

② 一般の人たちへのアプローチ

末永) こちらについては、どんなイメージをお持ちですか?

大橋) 家にオーディオが充実している人はなかなか多くないかもしれませんが、最近、サードプレイスといって、職場や家以外の場所が重要な空間として重視されていますけど、そういうところの音環境がいいものであって欲しいですよね。一般の方々が心を癒されるような音が、いい音で聴けると良いかもしれません。その先に家でもいい音で聴いてみようとするかもしれません。

末永) 音のいい空間を作っていくというのは、協会だけではできないので、バーやカフェに置いてあるオーディオが売りになっていたり、音にこだわった空間であったりというところを紹介するような散策記事を、JASジャーナルに取り上げてみようか、なんて話もあるんです。

大橋) いいですね、オーディオ協会お墨付き!ってのも、いいかもしれない。楽しみにしています。

③ 高齢者増加にともなう「聞こえのバリアフリー化」の推進

末永) 大橋さんには、JASジャーナル2022年春号にて、「~聴こえのバリアフリーを目指して~難聴者の奮闘記」というご自身が体験された難聴の苦労を記事として寄稿していただきました。この記事は、協会の関係者だけでなく、ITUの勧告H.870の活動のメンバーにも非常にインパクトを与えた記事として読まれているものとなっています。難聴予防の啓発活動は、協会としても力を入れていこうと考えています。

大橋) そんなに大きく取り扱ってもらって、光栄です。

末永) 帰国子女の個人会員に手伝ってもらって、英訳も進めています。

大橋) ありがとうございます。みんな耳を大事にしてもらいたいです。

末永) 私も最近、いろんな老化現象が出てきておりまして、バリアフリーというキーワードは刺さります。難聴について言えば、予防できることを意識していれば、それはそれでいいんですけど、もし難聴になったとしても、音楽を楽しむことを取り上げてしまうのは良くないと思いますし、まさにバリアフリーの重要性を感じています。

大橋) 末永さんのような理解者がいてくれて、ありがたいです。

末永) いえいえ、とんでもございません。引き続き、ご指導ください。

6. 最後に

久しぶりにお会いした大橋さんは、会話も非常にスムーズで、ますます積極的に活動もされているのを知り、お元気な様子にうれしく思いました。話をしてくれる相手がいると、頭も冴えるし、耳もよく聞こえるようになるから、楽しかったよ!と言っていただきました。5月にはCOMPUTEX台北に7年ぶりに行かれたそうですが、久しぶりに友達と会うためにモチベーションを高められていたそうです。

青梅にある「夢の図書館」には、マイコン博物館が併設され、その運営にも携わられているとのこと。「夢の図書館」には、戦前からの少年向け雑誌がたくさん所蔵されており、子供たちに科学の興味・好奇心を持たせることに熱心だった日本の先人たちの先見の明を、ぜひ見に行って欲しいと勧められました。

 夢の図書館のホームページ:https://www.dream-library.org/

大橋さん、本当に貴重なお話をたくさん聞かせていただき、ありがとうございました。数々のブームをつくってきた大橋さんの貴重な体験談に触れ、たくさんのヒントをいただいた様に思います。

インタビューの後はもちろん、大橋さんの行きつけの五反田の赤ちょうちんに、連れて行っていただきました。

以上

個人会員プロフィール

大橋太郎(おおはし たろう)
1948年、東京都生まれ
1971年、電波新聞社入社
ラジオの製作、マイコンBASICマガジン、コンピュータ・ミュージックマガジンなどの編集長を務め、アマチュア無線や海外放送受信のBCL、電子工作やプログラミング、打ち込み音楽など数々のブームを起こす。

筆者プロフィール

末永信一(すえなが しんいち)
1960年、福岡市生まれ
2019年、ソニー株式会社退社
2020年6月より、日本オーディオ協会専務理事に就任